Sep. 18th, 2019

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Доска в Мамэдо, Суномата, про битву при Суномата:
政権奉還を望んでいた上皇は承久三年 (一二二一年)五月十四日「やぶさめ」にかこつけて諸国の兵を集め討幕計画を練った。

北条氏に不満を持つ三浦胤義ら在京の幕府御家人らも多く参画し、義時追討の院宣が下り鎌倉幕府の中で義時

 に対抗しうるたゞ一人の人物三浦義村に対し弟の胤義を通じて密書

 が送られたが、義村はそのまゝ義時に通報してしまい討幕計画は

 初めから手違いが生じた。それでも院宣の効果が現れ鎌倉御家人

 の多くが動揺の色を見せ始めるが、この危機を救ったのが「尼将軍」

 政子の「頼朝の恩を忘れたのか」の涙ながらの訴えであった。鎌倉

 側は義時の子泰時を大将としてたゞちに進撃を開始、京都方も

 胤義、藤原秀康らを大将として進発し、六月五日両軍は木曽川を

 はさんで対峙した。大井戸(可児市土田)から市脇(羽島市市之枝)

 まで、九ヶ所の渡しを、京都方は総勢一万七千五百騎をもって

 固めた。そのうち、この地、摩免戸(前渡)を防備の中心におき、

 一万騎を結集して、鎌倉軍の攻撃を防ぐことになったが、十数万騎に

 のぼる大軍の前に大井戸、鵜沼と相次いで落ち各前線守備陣は

 たちまちにして破られてしまった。摩免戸を守っていた京都方の主将

 秀康、胤義は退いて守治、瀬田で防衛線を確保しようとして杭瀬川、

 瀬田で追撃軍と激闘奮戦するが、最後は京都の嵯峨野で自刃する。

 六月十五日鎌倉軍は都に入り「承久の乱」は一ヶ月で鎮圧され

 以来、朝廷、貴族の権威は下落する一方となり、逆に幕府、武士の

 権力はますます大きくなったのである。この不動山腹に安置されて

 いる五輪塔群は両軍の戦没者供養のため、この地域の人々の手に

 より西宮寺(前渡西町地内)に安置されたもので、その後、木曽川の

 氾濫により寺は流され供養塔も埋もれたまゝになっていたが、昭和

 初年に発掘され、かゝわりの深い当山に移転安置したものである。

 以来毎年六月五日に供養祭を行い今日に至っている。

https://ameblo.jp/sasa-rindou/entry-11990184925.html

http://enya-kk.seesaa.net/article/392185867.html

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