Понес меня чОрт искать в Минамотовских хрониках славную парочку мечей Хигэкири и Хидзамару. Зашла я на Мэйто, нашла ссылки на японский текст с точностью до свитка. Казалось бы, чего дальше сложного - вот она полка, на полке всё стоит рядками, открывай да читай. Однако же болт.
Пишет любезная база Мэйто: "やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
(平家物語 剣巻)", - иду я в "Повесть о доме Тайра", свиток 11, глава 12 "МэчЪ". И что дает мне перевод любезной госпожи Львовой? Тот самый болт: "— Змей-дракон, коего в древние времена рассек на куски бог Сусаноо в верховьях речки Хи, в краю Идзумо, очень сокрушался о потере священного меча. Вспомните, недаром бог-дракон принял облик змея о восьми головах и восьми хвостах... Вот и ныне, в соответствии с сим магическим числом, воплотился он в восьмилетнего государя, вступившего на престол после восьмидесяти земных императоров, и вернул себе заветный меч, вместе с ним погрузившись на дно морское!
Да, отныне стал сей меч достоянием бога-дракона в бездонных морских глубинах, и, пожалуй, в мир людей он больше никогда не вернется". И усё.
например здесь: https://www.e-reading.club/chapter.php/67811/173/Monah_Yukinaga_-_Povest'_o_dome_Taiira.html
Нету у главы "МэчЪ" нижней/заключительной части, где говорится не про мечи государя, а про мечи Минамото. Ну зачем переводить такие сложности. А она есть.
После слов: "あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。" идет вот что:
第百八句 剣の巻 下
渡辺の源四郎綱鬼切る事 安倍の貞任・宗任成敗の事
友切の起り 曾我夜討の事
下源家に二つの剣有り。
「膝丸」「鬚切」と申まうしけり。
人皇五十〔六〕代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申まうし奉たてまつる。
その御子経基六孫王、その嫡子ちやくし多田の満仲、上野介たりし時とき、源の姓を賜たまはつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。
筑前の国御笠の郡出山といふ所ところより鍛冶の上手を召されけり。
彼もとより名作なる上うへ、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳ゐとくをぞ祈りける。
南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。
他の人よりも、わが人なれば、氏子をまぼり給たまふらめ、しからばかの太刀たちを剣となし、源氏げんじの姓の弓矢ゆみやの冥加みやうが長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御おん社を出でにけり。
やがて都みやこへのぼり、最上の鉄くろがねを六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。
いづれも二尺七寸なり。
人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。
今いま一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
満仲の嫡子ちやくし、摂津守頼光につたはりけり。
かの時とき人多おほくかき消す様に失せければ、恐ろしかりしことどもなり。
これを詳しく尋たづぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女有り。
あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼おにとなり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申まうしける。
神は正直なれば、示現じげんあらたなり。
やがて都みやこに帰り、丈たけなる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬり、頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝きもを消し、やがて鬼おにとぞなりにける。
「宇治の橋姫」とはこれなり。
「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。
京中、申さるの刻こくよりのちは門戸を閉ぢて音もせず。
そのころ、頼光よりみつの郎等らうどうに「渡辺わたなべの源四郎げんしらう綱つな」といふ者もの有り。
武蔵むさしの国くに箕田みたといふ所ところにて生むまれければ、箕田みたの源四げんしと申まうしけり。
頼光よりみつの使として、一条いちでう大宮おほみやにつかはしけるが、夜陰やいんにおよび、馬むまに乗のり、おそろしき世よの中なかなればとて、鬚切をはかせらる。
一条いちでう堀川ほりかはの戻橋もどりばしにて、齢よはひ二十あまりの女房にようばうの、まことにきよげなるが、紅梅こうばいの薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱つながうち過ぐるを見て、夜よふけおそろしきに、送り給たまひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱つな馬むまより飛んでおり、子細にやおよび候さうらふべきとて、いだいて馬むまに乗のせ、わが身も後輪しづわにむずと乗のり、堀川ほりかはの東ひがしを南みなみへ行きけるに、女房にようばう申す様やう、わが住む所ところは都みやこのほか。おくり給はんや」。
「さん候ざうらふ」とこたへければ、「わが行く所ところは愛宕山ぞ」とて、綱つなが髻もとどりひつ掴つかんで、乾いぬゐをさして飛んで行く。
綱つなはちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼おにの手切る」と思おもへば、北野の社の回廊の上うへにぞ落ちにける。
髻もとどりにつきたる手を取つてみれば、女房にようばうの姿すがたにては、雪の膚はだへとおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮こちぢみなり。
これを持参ぢさんしければ、頼光よりみつおどろき給たまひて、播磨はりまなる晴明せいめいを呼びて問はれければ、「綱つなには七日のいとま賜たまはつて、仁王経にんわうぎやうを購読かうどくすべし」とぞ申まうしける。
第六日だいむいかになる夜よ、門もんをたたく者もの有り。
「たれ」と問へば、「綱つなが養母、渡辺わたなべよりのぼりたる」とこたふ。
この養母と申まうすは、綱つながためには伯母をばなり。
「人してはあしかりなん」とて、綱つなたち寄りて言ひけるは、「七日の物忌ものいみにて候さうらへば、いづくにも一夜いちやの宿やどを借り給たまひて、明日みやうにち入らせ給たまふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生むまれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光よりみつの御内に、『箕田みた源四げんし』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者ものなし。うれしきにつけても、恋しとのみ思おもへば、このごろはひとしほ夢見心こころもとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝ふけうの咎なれば、神明しんめいもまぼり給はじ。七日の祈誓きせいよしなし。今いまよりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱つなは道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。
来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋たづねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。
母、「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さてその鬼おにの手といふなるもの、世の物語ものがたりに見ばや」とぞ望みける。
綱つなは「見せじ」とは思おもへども、さきの恨みが肝きもに染み、深く封じたる鬼おにの手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼おにになり、破風蹴破り、出でにけり。
それより渡辺党わたなべたうは家に破風をたてず。
あづまやにつくるなり。
鬚切、鬼おにを切りてより「鬼丸」と改名かいみやうしけり。
また頼光よりみつ、そのころ瘧病ぎやへいわずらはる。
なかばさめたるをりふしに、空より変化へんげの者もの下くだり、頼光よりみつを綱つなにて巻かんとす。
枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思おもはれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。
掘りてみれば、蜘蛛にて有り。
鉄くろがねの串にさしてぞさらされける。
それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申まうしける。
頼光よりみつよりのち、三河守みかはのかみ頼綱よりつなにつたはる。
天喜五年ごねんに頼光よりみつの弟、河内守かはちのかみ頼信よりのぶの嫡子ちやくし、伊予守いよのかみ頼義よりよし、奥州あうしうの住人ぢゆうにん、厨川くりやがはの次郎、安倍の貞任さだたふ兄弟きやうだいを攻めんとせし時とき、陸奥守に任ぜらる。
宣旨せんじにて鬼丸、蜘蛛切を頼綱よりつなが手より頼義よりよしに賜びにけり。
かの太刀たちにて九年があひだに攻め従したがへ、貞任さだたふを首を切り、宗任むねたふをば生捕いけどりにし、上のぼられけるが、丈たけ六尺四寸なり。
殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷えびすを見ん」とて行かれけるに、一人梅むめの花を手折たをりて、「やや宗任むねたふ。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、わが国くにの梅むめの花とは見たれども大宮人おほみやびとはいかがいふらんと申まうしければ、殿上人しらけてぞ帰かへられける。
そののち筑紫つくしへ流され、今いまの「松浦党まつらたう」とぞ承うけたまはる。
かくて頼義よりよしより嫡子ちやくし八幡太郎義家よしいへにつたはる。
また奥州あうしうを賜たまはつて下くだりしほどに、出羽の国千福せんぶく金沢かなざはの城じやうに家衡いへひら武衡たけひらとぢ籠こもりて、国を乱す。
義家よしいへ向かつて、三年に攻め従したがへ、あはせて十二年の合戦かつせんに、朝敵てうてきほろびぬること、二つの剣の威光ゐくわうなり。
義家よしいへの嫡子ちやくし対馬守つしまのかみ、の国に謀叛むほんの者もの有り」とて、因幡いなばの正盛まさもりを下くだされ、かの国くににて討たれしかば、四男六条ろくでうの判官はうぐわん為義ためよしにつたはる。
十四にて叔父をぢを討ち、左近将監さこんのしやうげんに任ぜらる。
十八歳にて、南都なんとの衆徒しゆとの謀叛むほんをたひらげ、栗子山の峠たうげより追つ返し、あまさへ物具もののぐはぎなんどしけるも、剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
その時とき山法師聞きてかくぞ詠みける。
奈良法師栗子山までしぶり来ていが物具もののぐをむきぞとらるる奈良法師やすからざることに思おもひける所ところに、山法師、阿波の上座じやうざといふ者ものにたばかられて禁獄きんごくせられたれば、これを栗子山の返答へんたふにかくなん。
ひえ法師ほふしあはの上座じやうざにはかられてきびしく牢につがれけるかな為義ためよし勧賞くわんしやうに右衛門尉ゑもんのじようになる。
三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義よりよし、義家よしいへ、数年すねんの戦たたかひ有り。
門出かどであしければ他国たこくを賜たまはるべし」と仰せ下くださる。
「先祖せんぞの国くに賜たまはらずして、なにかせん」とて、つひに受領じゆりやうせざりけり。
ある時とき、かの剣夜もすがら吠ゆる声こゑ有り。
鬼丸は獅子の声こゑなり。
蜘蛛切は蛇の鳴く声こゑなり。
かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。
為義ためよし、思おもひ者ものあまた有りければ、男女なんによ四十六人の子なり。
熊野くまのに有りけるは、「鶴原たづはら[*「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の女房」とぞ申まうしける。
その腹に娘むすめ有り。
白河しらかはの院ゐん熊野くまのへ参詣さんけい有りし時とき、「別当べつたうは」と御おん尋たづね有りければ、「もとより候はず」と申す。
「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠こもりたる山伏を、「院宣ゐんぜんなれば」とて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。
教真けうしん別当べつたうこれなり。
「別当べつたうは重代ぢゆうだいすべき者ものなれば、子なくしてかなふまじ」とて、最愛さいあいを尋たづねしに、「為義ためよしが鶴原たづはらの娘むすめ」とぞ聞こえし。
為義ためよしつたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者しゆぎやうじやをおさへて合はせられしこと、口惜しき」ことにして、不孝ふけうの子のごとし。
かかりける所ところに、「源平げんぺい国くにをあらそふべき」よし、遠国をんごくまでも披露ひろう有り。
教真けうしん、「この時とき与力よりきして、不孝ふけうをも許さればや」と思おもひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都みやこにのぼりけり。
為義ためよし聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。
さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋たづぬれば、実方さねかた中将ちゆうじやうの末葉ばつえふ、系図、目録あざやかなれば、対面たいめんにおよんで、吠丸をこそ引きにけれ。
教真けうしん別当べつたうこれを賜たまはつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現ごんげんに籠め奉たてまつる。
昔むかしより二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、まさるほどにぞつくりける。
目貫に烏をつくらせければ、「小烏こがらす」とぞ申まうしける。
「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。
ある時とき二つの剣を、柄、鞘を取り、障子しやうじに寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏こがらすが中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。
それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。
為義ためよし、二つの剣を嫡子ちやくし下野守しもつけのかみ義朝よしともにゆづられけり。
さるほどに、保元ほうげんの乱れ出で来る。
為義ためよしは、父子七人、院ゐんの御所へ参まゐらる。
義朝よしとも一人内裏だいりへ召さる。
保元ほうげん元年ぐわんねん七月十一日寅の刻こくより辰の刻こくまで三時みときのいくさに、新院しんゐん負け給たまふあひだ、為義ためよし東国とうごくへは単己無頼なれば下くだらず。
天台山てんだいさんにて出家しゆつけして、「義法房ぎほふばう」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子ちやくし義朝よしともを頼み行かれけり。
朝敵てうてきなれば力ちからおよはず、義朝よしとも承うけたまはつて斬られけるこそ口惜しけれ。
同じく舎弟しやてい、為朝ためともばかり助かりて、五人は斬られぬ。
腹々の子四人ともに殺さる。
為朝ためともは伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。
今度こんどの勧賞くわんしやうに、義朝よしとも左馬頭さまのかみになされしが、やがて悪右衛門督あくゑもんのかみ信頼のぶよりにかたらはれて朝敵てうてきとなり、都みやこを落ちし時とき、西近江にしあふみ比良ひらといふ所ところにて、八幡大菩薩を恨み奉たてまつる。
「祖父そぶ義家よしいへは、大菩薩の御烏帽子子えぼしごとして、八幡太郎と号かうせしよりこのかた、『弓矢ゆみやの冥加みやうがにおいては疑うたがひなし』と思おもひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議ふしぎなれ。
ことに剣の威徳ゐとくまで劣りはてぬるくやしさよ。
今いまは放たせ給たまふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現じげん有り。
「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性みやうせんじしやうは、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔むかしにかへさば、末すゑはたのもしからん」とて、夢ゆめははてにけり。
義朝よしともうちおどろき、すなはち昔むかしの名にぞかへされける。
「産衣うぶぎぬ」といふ鎧よろひに「鬚切」そへて、頼朝よりともにこそゆづられけれ。
十二歳。
いくさの場よりして、かの太刀たち、鎧よろひを着ちやくせしは、末代まつだいの将軍しやうぐんと見なし給たまふぞ奇特なる。
塩津しほづの庄司しやうじがもとに一宿し、東近江ひがしあふみへ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。
討手うちて下くだる」と聞こえしかば、雪山せつさんに分け入りぬ。
悪源太あくげんだ義平よしひらは、飛騨の国くにへ落ち行きぬ。
頼朝よりともはいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとどまる。
義朝よしともは朝長ともながを召し具ぐして、美濃の国くに青墓の長者ちやうじやが宿所へ行かれしが、朝長ともながは痛手いたでなれば、自害じがいしつ。
尾張をはりの国くに長田の庄司しやうじ忠致ただむねをたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉たてまつり、御おん首に小烏こがらすあひそへて、平家の見参げんざんに入りしより、小烏こがらすは平家の剣となりにけり。
頼朝よりともは、雪山せつさんを出でて、東近江ひがしあふみ、草野の尉じようにやしなはれ、御堂みだうの天井てんじやうに隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思おもひ、草野の尉じようを深く頼み、母方の祖父おほぢなればとて、熱田あつたの大宮司だいぐうじにあづけけり。
清盛きよもりの舎弟しやてい三河守みかはのかみ頼盛よりもり、今度こんどの勧賞くわんしやうに尾張守をはりのかみになり、弥平兵衛やひやうびやうゑ宗清むねきよを下くださる。
頼朝よりともをさがし取つてのぼりければ、やがて宗清むねきよにあづけらる。
頼盛よりもりの母の尼公にこう、死罪しざいを申まうしなだめ、伊豆の国北条ほうでうの蛭が小島へ流され、三十一と申す治承ぢしよう四年の夏、一院いちゐんの宣旨せんじをかうぶりて、謀叛むほんをおこされし時とき、熱田あつたの宮より申まうし乞ひ、鬚切を帯はき、五畿ごき七道しちだうを従したがへ給たまふ。
牛若うしわか、その時とき当歳たうざいなり。
九つの年より鞍馬くらまへのぼり、東光房とうくわうばう円忍ゑんにんの弟子でし、覚円房かくゑんばうに学問がくもんし、遮那王しやなわうと言ひけるが、十六と申す承安じようあん四年の春、五条ごでうの橋の辺なる末春すゑはるといふ商人あきんどと東あづまへ下くだり、道にてみづから元服げんぶくして、源九郎義経よしつねと名のり、権太郎秀衡ひでひらを頼みしが、舎兄しやきやうの与力よりきとしてのぼるほどに、合沢あひざはにて行き逢ひけり。
木曾を誅戮ちゆうりくし、摂津つの国くに一いちの谷たにへ向かはんとす。
ここに熊野くまのの教真けうしんが子に、田辺たなべの湛増たんぞう、「源氏は母方なれば」とて、為義ためよしの手より渡されし膝丸を引きて、見参げんざんにこそ入りにけれ。
熊野くまのより春の山を出でたればとて、名をば「薄緑うすみどり」とあらためらる。
山陽さんやう、山陰さんいん、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
義経よしつね、鎌倉かまくらへ下くだらんとせし時とき、梶原かぢはらが讒言ざんげんによつて、かへり上のぼられけるに、剣を箱根はこねに籠められけり。
建久けんきう四年五月二十八日の夜、曾我そが兄弟きやうだいが夜討ようちの時とき、箱根はこねの別当べつたう行実ぎやうじつが手より兵庫鎖ひやうごぐさりの太刀たちを五郎に得しは、この薄緑うすみどりなり。
されば名を後代にあげしとかや。
その時とき鎌倉かまくらに召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/heike/h107.html
И теперь мне с моими скромными познаниями надо убиваться это переводить. Потому что сволочной японский фандом Торанбу, например, в курсе о существовании этого куска и активно его использует, а я чувствую себя набитой дурой.
И если вы думаете, что опускание фрагментов - это самая большая беда (ок, возможно у госпожи Львовой был другой вариант списков текста, бывает такое - хотя у меня сейчас есть просто горящее желание проверить, отличается ли вообще конкретно этот фрагмент в разных списках "Повести"), то вот вам болт номер два.
Проверяя все те же данные, хапнула не свеженький Онищенковский перевод, а перевод доктора(!) исторических(!) наук Горегляда, "крупнейшего русскоязычного япониста второй половины XX века" (бо ближе лежал). Открыла в том числе и на сцене убиения малолетних отпрысков Тамэёси.
Горегляд:
"Бывшая там кормилица господина Тэнъо, найки Хэйда, развязала у себя тесёмки, сунула руку воспитанника себе за пазуху и приложила её к своей коже. Плача и плача, кормилица уговаривала его:
— До нынешнего года мы семь лет не разлучались с тобой ни на миг. Кто теперь будет сидеть у меня на коленях, чью голову обниму я? Мне следует забыть о том времени, когда мне хотелось передать тебе свои владения. Кто проведёт тебя по дороге через Сидэнояма, горы мёртвых, и как перейдёшь ты через них?! Подожди немного. Я к тебе опаздываю!
Она сейчас же рассекла себе живот и рухнула на детей сверху. Увидев это, оставшиеся трое воспитанников той же кормилицы заявили: «А мы чем хуже?!» — и тоже один за другим совершили харакири. Покончил с собой и самый низкопоставленный из слуг господина Тэнъо. Совершил харакири также самый низкопоставленный слуга господина Отовака. И так на горе Фунаока приняли смерть 18 человек господ и их слуг".
Онищенко: "Приставленный к семилетнему Тэнно Найки Хэйда развязал тесемки одежды, положил труп Тэнно за пазуху и прижал к своему телу:
- Семь лет не отходил я от тебя ни на шаг! Кого же теперь я усажу к себе на колени? Кто будет обнимать меня за шею? "Когда у меня будет поместье - поставлю тебя управляющим!" - говорил ты, но никогда я уже больше этого не услышу! Кто будет сопровождать тебя в пути по горам, ведущем к смерти! Когда вернусь - кого мне теперь утешать? Не смогу я служить никому больше! - и с этими словами разрезал себе живот и повалился ничком. Остальные трое охранников, увидев это, тоже покончили с собой".
Чисто из соображений здравого смысла: увозят мужики детей из дома незнамо куда, откуда кормилицы? Ну ок, взяли кормилицу, учитывая Хэйан. Но йоба! Кормилица, собирающаяся подарить господину свое поместье - это уже чересчур! Кроме того, я не понимаю, почему воспитанники кормилицы (и почему вдруг именно воспитанники кормилицы не самого старшего из всех братьев становятся сопровождающими братьев) должны резать животы.
И я уже молчу, что Найки - это одна из самых старых фамилий, служивших Синановским Минамото вплоть до Сэнгоку (например, Найки при Санадах). Японисту ли с докторской степенью по истории этого не знать.
Хорошо, допустим, это черновой перевод, сданный потомками в издательство без проверки.
Но практическом многолетнему устному(!) переводчику запутаться в кто кому поместье сдает?..
При этом у него же ранее: "Найки — чиновник Внутреннего ведомства (Накацукасасё), в обязанности которого входило составление черновиков императорских рескриптов и ведение делопроизводства двора. Должность найки делилась на 3 разряда (великий, средний и малый), каждый из которых занимали по два человека", - то есть как минимум найки/Найки - мужЫг.
Пишет любезная база Мэйто: "やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
(平家物語 剣巻)", - иду я в "Повесть о доме Тайра", свиток 11, глава 12 "МэчЪ". И что дает мне перевод любезной госпожи Львовой? Тот самый болт: "— Змей-дракон, коего в древние времена рассек на куски бог Сусаноо в верховьях речки Хи, в краю Идзумо, очень сокрушался о потере священного меча. Вспомните, недаром бог-дракон принял облик змея о восьми головах и восьми хвостах... Вот и ныне, в соответствии с сим магическим числом, воплотился он в восьмилетнего государя, вступившего на престол после восьмидесяти земных императоров, и вернул себе заветный меч, вместе с ним погрузившись на дно морское!
Да, отныне стал сей меч достоянием бога-дракона в бездонных морских глубинах, и, пожалуй, в мир людей он больше никогда не вернется". И усё.
например здесь: https://www.e-reading.club/chapter.php/67811/173/Monah_Yukinaga_-_Povest'_o_dome_Taiira.html
Нету у главы "МэчЪ" нижней/заключительной части, где говорится не про мечи государя, а про мечи Минамото. Ну зачем переводить такие сложности. А она есть.
После слов: "あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。" идет вот что:
第百八句 剣の巻 下
渡辺の源四郎綱鬼切る事 安倍の貞任・宗任成敗の事
友切の起り 曾我夜討の事
下源家に二つの剣有り。
「膝丸」「鬚切」と申まうしけり。
人皇五十〔六〕代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申まうし奉たてまつる。
その御子経基六孫王、その嫡子ちやくし多田の満仲、上野介たりし時とき、源の姓を賜たまはつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。
筑前の国御笠の郡出山といふ所ところより鍛冶の上手を召されけり。
彼もとより名作なる上うへ、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳ゐとくをぞ祈りける。
南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。
他の人よりも、わが人なれば、氏子をまぼり給たまふらめ、しからばかの太刀たちを剣となし、源氏げんじの姓の弓矢ゆみやの冥加みやうが長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御おん社を出でにけり。
やがて都みやこへのぼり、最上の鉄くろがねを六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。
いづれも二尺七寸なり。
人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。
今いま一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
満仲の嫡子ちやくし、摂津守頼光につたはりけり。
かの時とき人多おほくかき消す様に失せければ、恐ろしかりしことどもなり。
これを詳しく尋たづぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女有り。
あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼おにとなり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申まうしける。
神は正直なれば、示現じげんあらたなり。
やがて都みやこに帰り、丈たけなる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬり、頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝きもを消し、やがて鬼おにとぞなりにける。
「宇治の橋姫」とはこれなり。
「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。
京中、申さるの刻こくよりのちは門戸を閉ぢて音もせず。
そのころ、頼光よりみつの郎等らうどうに「渡辺わたなべの源四郎げんしらう綱つな」といふ者もの有り。
武蔵むさしの国くに箕田みたといふ所ところにて生むまれければ、箕田みたの源四げんしと申まうしけり。
頼光よりみつの使として、一条いちでう大宮おほみやにつかはしけるが、夜陰やいんにおよび、馬むまに乗のり、おそろしき世よの中なかなればとて、鬚切をはかせらる。
一条いちでう堀川ほりかはの戻橋もどりばしにて、齢よはひ二十あまりの女房にようばうの、まことにきよげなるが、紅梅こうばいの薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱つながうち過ぐるを見て、夜よふけおそろしきに、送り給たまひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱つな馬むまより飛んでおり、子細にやおよび候さうらふべきとて、いだいて馬むまに乗のせ、わが身も後輪しづわにむずと乗のり、堀川ほりかはの東ひがしを南みなみへ行きけるに、女房にようばう申す様やう、わが住む所ところは都みやこのほか。おくり給はんや」。
「さん候ざうらふ」とこたへければ、「わが行く所ところは愛宕山ぞ」とて、綱つなが髻もとどりひつ掴つかんで、乾いぬゐをさして飛んで行く。
綱つなはちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼おにの手切る」と思おもへば、北野の社の回廊の上うへにぞ落ちにける。
髻もとどりにつきたる手を取つてみれば、女房にようばうの姿すがたにては、雪の膚はだへとおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮こちぢみなり。
これを持参ぢさんしければ、頼光よりみつおどろき給たまひて、播磨はりまなる晴明せいめいを呼びて問はれければ、「綱つなには七日のいとま賜たまはつて、仁王経にんわうぎやうを購読かうどくすべし」とぞ申まうしける。
第六日だいむいかになる夜よ、門もんをたたく者もの有り。
「たれ」と問へば、「綱つなが養母、渡辺わたなべよりのぼりたる」とこたふ。
この養母と申まうすは、綱つながためには伯母をばなり。
「人してはあしかりなん」とて、綱つなたち寄りて言ひけるは、「七日の物忌ものいみにて候さうらへば、いづくにも一夜いちやの宿やどを借り給たまひて、明日みやうにち入らせ給たまふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生むまれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光よりみつの御内に、『箕田みた源四げんし』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者ものなし。うれしきにつけても、恋しとのみ思おもへば、このごろはひとしほ夢見心こころもとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝ふけうの咎なれば、神明しんめいもまぼり給はじ。七日の祈誓きせいよしなし。今いまよりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱つなは道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。
来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋たづねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。
母、「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さてその鬼おにの手といふなるもの、世の物語ものがたりに見ばや」とぞ望みける。
綱つなは「見せじ」とは思おもへども、さきの恨みが肝きもに染み、深く封じたる鬼おにの手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼おにになり、破風蹴破り、出でにけり。
それより渡辺党わたなべたうは家に破風をたてず。
あづまやにつくるなり。
鬚切、鬼おにを切りてより「鬼丸」と改名かいみやうしけり。
また頼光よりみつ、そのころ瘧病ぎやへいわずらはる。
なかばさめたるをりふしに、空より変化へんげの者もの下くだり、頼光よりみつを綱つなにて巻かんとす。
枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思おもはれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。
掘りてみれば、蜘蛛にて有り。
鉄くろがねの串にさしてぞさらされける。
それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申まうしける。
頼光よりみつよりのち、三河守みかはのかみ頼綱よりつなにつたはる。
天喜五年ごねんに頼光よりみつの弟、河内守かはちのかみ頼信よりのぶの嫡子ちやくし、伊予守いよのかみ頼義よりよし、奥州あうしうの住人ぢゆうにん、厨川くりやがはの次郎、安倍の貞任さだたふ兄弟きやうだいを攻めんとせし時とき、陸奥守に任ぜらる。
宣旨せんじにて鬼丸、蜘蛛切を頼綱よりつなが手より頼義よりよしに賜びにけり。
かの太刀たちにて九年があひだに攻め従したがへ、貞任さだたふを首を切り、宗任むねたふをば生捕いけどりにし、上のぼられけるが、丈たけ六尺四寸なり。
殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷えびすを見ん」とて行かれけるに、一人梅むめの花を手折たをりて、「やや宗任むねたふ。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、わが国くにの梅むめの花とは見たれども大宮人おほみやびとはいかがいふらんと申まうしければ、殿上人しらけてぞ帰かへられける。
そののち筑紫つくしへ流され、今いまの「松浦党まつらたう」とぞ承うけたまはる。
かくて頼義よりよしより嫡子ちやくし八幡太郎義家よしいへにつたはる。
また奥州あうしうを賜たまはつて下くだりしほどに、出羽の国千福せんぶく金沢かなざはの城じやうに家衡いへひら武衡たけひらとぢ籠こもりて、国を乱す。
義家よしいへ向かつて、三年に攻め従したがへ、あはせて十二年の合戦かつせんに、朝敵てうてきほろびぬること、二つの剣の威光ゐくわうなり。
義家よしいへの嫡子ちやくし対馬守つしまのかみ、の国に謀叛むほんの者もの有り」とて、因幡いなばの正盛まさもりを下くだされ、かの国くににて討たれしかば、四男六条ろくでうの判官はうぐわん為義ためよしにつたはる。
十四にて叔父をぢを討ち、左近将監さこんのしやうげんに任ぜらる。
十八歳にて、南都なんとの衆徒しゆとの謀叛むほんをたひらげ、栗子山の峠たうげより追つ返し、あまさへ物具もののぐはぎなんどしけるも、剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
その時とき山法師聞きてかくぞ詠みける。
奈良法師栗子山までしぶり来ていが物具もののぐをむきぞとらるる奈良法師やすからざることに思おもひける所ところに、山法師、阿波の上座じやうざといふ者ものにたばかられて禁獄きんごくせられたれば、これを栗子山の返答へんたふにかくなん。
ひえ法師ほふしあはの上座じやうざにはかられてきびしく牢につがれけるかな為義ためよし勧賞くわんしやうに右衛門尉ゑもんのじようになる。
三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義よりよし、義家よしいへ、数年すねんの戦たたかひ有り。
門出かどであしければ他国たこくを賜たまはるべし」と仰せ下くださる。
「先祖せんぞの国くに賜たまはらずして、なにかせん」とて、つひに受領じゆりやうせざりけり。
ある時とき、かの剣夜もすがら吠ゆる声こゑ有り。
鬼丸は獅子の声こゑなり。
蜘蛛切は蛇の鳴く声こゑなり。
かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。
為義ためよし、思おもひ者ものあまた有りければ、男女なんによ四十六人の子なり。
熊野くまのに有りけるは、「鶴原たづはら[*「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の女房」とぞ申まうしける。
その腹に娘むすめ有り。
白河しらかはの院ゐん熊野くまのへ参詣さんけい有りし時とき、「別当べつたうは」と御おん尋たづね有りければ、「もとより候はず」と申す。
「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠こもりたる山伏を、「院宣ゐんぜんなれば」とて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。
教真けうしん別当べつたうこれなり。
「別当べつたうは重代ぢゆうだいすべき者ものなれば、子なくしてかなふまじ」とて、最愛さいあいを尋たづねしに、「為義ためよしが鶴原たづはらの娘むすめ」とぞ聞こえし。
為義ためよしつたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者しゆぎやうじやをおさへて合はせられしこと、口惜しき」ことにして、不孝ふけうの子のごとし。
かかりける所ところに、「源平げんぺい国くにをあらそふべき」よし、遠国をんごくまでも披露ひろう有り。
教真けうしん、「この時とき与力よりきして、不孝ふけうをも許さればや」と思おもひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都みやこにのぼりけり。
為義ためよし聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。
さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋たづぬれば、実方さねかた中将ちゆうじやうの末葉ばつえふ、系図、目録あざやかなれば、対面たいめんにおよんで、吠丸をこそ引きにけれ。
教真けうしん別当べつたうこれを賜たまはつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現ごんげんに籠め奉たてまつる。
昔むかしより二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、まさるほどにぞつくりける。
目貫に烏をつくらせければ、「小烏こがらす」とぞ申まうしける。
「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。
ある時とき二つの剣を、柄、鞘を取り、障子しやうじに寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏こがらすが中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。
それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。
為義ためよし、二つの剣を嫡子ちやくし下野守しもつけのかみ義朝よしともにゆづられけり。
さるほどに、保元ほうげんの乱れ出で来る。
為義ためよしは、父子七人、院ゐんの御所へ参まゐらる。
義朝よしとも一人内裏だいりへ召さる。
保元ほうげん元年ぐわんねん七月十一日寅の刻こくより辰の刻こくまで三時みときのいくさに、新院しんゐん負け給たまふあひだ、為義ためよし東国とうごくへは単己無頼なれば下くだらず。
天台山てんだいさんにて出家しゆつけして、「義法房ぎほふばう」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子ちやくし義朝よしともを頼み行かれけり。
朝敵てうてきなれば力ちからおよはず、義朝よしとも承うけたまはつて斬られけるこそ口惜しけれ。
同じく舎弟しやてい、為朝ためともばかり助かりて、五人は斬られぬ。
腹々の子四人ともに殺さる。
為朝ためともは伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。
今度こんどの勧賞くわんしやうに、義朝よしとも左馬頭さまのかみになされしが、やがて悪右衛門督あくゑもんのかみ信頼のぶよりにかたらはれて朝敵てうてきとなり、都みやこを落ちし時とき、西近江にしあふみ比良ひらといふ所ところにて、八幡大菩薩を恨み奉たてまつる。
「祖父そぶ義家よしいへは、大菩薩の御烏帽子子えぼしごとして、八幡太郎と号かうせしよりこのかた、『弓矢ゆみやの冥加みやうがにおいては疑うたがひなし』と思おもひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議ふしぎなれ。
ことに剣の威徳ゐとくまで劣りはてぬるくやしさよ。
今いまは放たせ給たまふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現じげん有り。
「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性みやうせんじしやうは、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔むかしにかへさば、末すゑはたのもしからん」とて、夢ゆめははてにけり。
義朝よしともうちおどろき、すなはち昔むかしの名にぞかへされける。
「産衣うぶぎぬ」といふ鎧よろひに「鬚切」そへて、頼朝よりともにこそゆづられけれ。
十二歳。
いくさの場よりして、かの太刀たち、鎧よろひを着ちやくせしは、末代まつだいの将軍しやうぐんと見なし給たまふぞ奇特なる。
塩津しほづの庄司しやうじがもとに一宿し、東近江ひがしあふみへ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。
討手うちて下くだる」と聞こえしかば、雪山せつさんに分け入りぬ。
悪源太あくげんだ義平よしひらは、飛騨の国くにへ落ち行きぬ。
頼朝よりともはいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとどまる。
義朝よしともは朝長ともながを召し具ぐして、美濃の国くに青墓の長者ちやうじやが宿所へ行かれしが、朝長ともながは痛手いたでなれば、自害じがいしつ。
尾張をはりの国くに長田の庄司しやうじ忠致ただむねをたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉たてまつり、御おん首に小烏こがらすあひそへて、平家の見参げんざんに入りしより、小烏こがらすは平家の剣となりにけり。
頼朝よりともは、雪山せつさんを出でて、東近江ひがしあふみ、草野の尉じようにやしなはれ、御堂みだうの天井てんじやうに隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思おもひ、草野の尉じようを深く頼み、母方の祖父おほぢなればとて、熱田あつたの大宮司だいぐうじにあづけけり。
清盛きよもりの舎弟しやてい三河守みかはのかみ頼盛よりもり、今度こんどの勧賞くわんしやうに尾張守をはりのかみになり、弥平兵衛やひやうびやうゑ宗清むねきよを下くださる。
頼朝よりともをさがし取つてのぼりければ、やがて宗清むねきよにあづけらる。
頼盛よりもりの母の尼公にこう、死罪しざいを申まうしなだめ、伊豆の国北条ほうでうの蛭が小島へ流され、三十一と申す治承ぢしよう四年の夏、一院いちゐんの宣旨せんじをかうぶりて、謀叛むほんをおこされし時とき、熱田あつたの宮より申まうし乞ひ、鬚切を帯はき、五畿ごき七道しちだうを従したがへ給たまふ。
牛若うしわか、その時とき当歳たうざいなり。
九つの年より鞍馬くらまへのぼり、東光房とうくわうばう円忍ゑんにんの弟子でし、覚円房かくゑんばうに学問がくもんし、遮那王しやなわうと言ひけるが、十六と申す承安じようあん四年の春、五条ごでうの橋の辺なる末春すゑはるといふ商人あきんどと東あづまへ下くだり、道にてみづから元服げんぶくして、源九郎義経よしつねと名のり、権太郎秀衡ひでひらを頼みしが、舎兄しやきやうの与力よりきとしてのぼるほどに、合沢あひざはにて行き逢ひけり。
木曾を誅戮ちゆうりくし、摂津つの国くに一いちの谷たにへ向かはんとす。
ここに熊野くまのの教真けうしんが子に、田辺たなべの湛増たんぞう、「源氏は母方なれば」とて、為義ためよしの手より渡されし膝丸を引きて、見参げんざんにこそ入りにけれ。
熊野くまのより春の山を出でたればとて、名をば「薄緑うすみどり」とあらためらる。
山陽さんやう、山陰さんいん、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
義経よしつね、鎌倉かまくらへ下くだらんとせし時とき、梶原かぢはらが讒言ざんげんによつて、かへり上のぼられけるに、剣を箱根はこねに籠められけり。
建久けんきう四年五月二十八日の夜、曾我そが兄弟きやうだいが夜討ようちの時とき、箱根はこねの別当べつたう行実ぎやうじつが手より兵庫鎖ひやうごぐさりの太刀たちを五郎に得しは、この薄緑うすみどりなり。
されば名を後代にあげしとかや。
その時とき鎌倉かまくらに召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/heike/h107.html
И теперь мне с моими скромными познаниями надо убиваться это переводить. Потому что сволочной японский фандом Торанбу, например, в курсе о существовании этого куска и активно его использует, а я чувствую себя набитой дурой.
И если вы думаете, что опускание фрагментов - это самая большая беда (ок, возможно у госпожи Львовой был другой вариант списков текста, бывает такое - хотя у меня сейчас есть просто горящее желание проверить, отличается ли вообще конкретно этот фрагмент в разных списках "Повести"), то вот вам болт номер два.
Проверяя все те же данные, хапнула не свеженький Онищенковский перевод, а перевод доктора(!) исторических(!) наук Горегляда, "крупнейшего русскоязычного япониста второй половины XX века" (бо ближе лежал). Открыла в том числе и на сцене убиения малолетних отпрысков Тамэёси.
Горегляд:
"Бывшая там кормилица господина Тэнъо, найки Хэйда, развязала у себя тесёмки, сунула руку воспитанника себе за пазуху и приложила её к своей коже. Плача и плача, кормилица уговаривала его:
— До нынешнего года мы семь лет не разлучались с тобой ни на миг. Кто теперь будет сидеть у меня на коленях, чью голову обниму я? Мне следует забыть о том времени, когда мне хотелось передать тебе свои владения. Кто проведёт тебя по дороге через Сидэнояма, горы мёртвых, и как перейдёшь ты через них?! Подожди немного. Я к тебе опаздываю!
Она сейчас же рассекла себе живот и рухнула на детей сверху. Увидев это, оставшиеся трое воспитанников той же кормилицы заявили: «А мы чем хуже?!» — и тоже один за другим совершили харакири. Покончил с собой и самый низкопоставленный из слуг господина Тэнъо. Совершил харакири также самый низкопоставленный слуга господина Отовака. И так на горе Фунаока приняли смерть 18 человек господ и их слуг".
Онищенко: "Приставленный к семилетнему Тэнно Найки Хэйда развязал тесемки одежды, положил труп Тэнно за пазуху и прижал к своему телу:
- Семь лет не отходил я от тебя ни на шаг! Кого же теперь я усажу к себе на колени? Кто будет обнимать меня за шею? "Когда у меня будет поместье - поставлю тебя управляющим!" - говорил ты, но никогда я уже больше этого не услышу! Кто будет сопровождать тебя в пути по горам, ведущем к смерти! Когда вернусь - кого мне теперь утешать? Не смогу я служить никому больше! - и с этими словами разрезал себе живот и повалился ничком. Остальные трое охранников, увидев это, тоже покончили с собой".
Чисто из соображений здравого смысла: увозят мужики детей из дома незнамо куда, откуда кормилицы? Ну ок, взяли кормилицу, учитывая Хэйан. Но йоба! Кормилица, собирающаяся подарить господину свое поместье - это уже чересчур! Кроме того, я не понимаю, почему воспитанники кормилицы (и почему вдруг именно воспитанники кормилицы не самого старшего из всех братьев становятся сопровождающими братьев) должны резать животы.
И я уже молчу, что Найки - это одна из самых старых фамилий, служивших Синановским Минамото вплоть до Сэнгоку (например, Найки при Санадах). Японисту ли с докторской степенью по истории этого не знать.
Хорошо, допустим, это черновой перевод, сданный потомками в издательство без проверки.
Но практическом многолетнему устному(!) переводчику запутаться в кто кому поместье сдает?..
При этом у него же ранее: "Найки — чиновник Внутреннего ведомства (Накацукасасё), в обязанности которого входило составление черновиков императорских рескриптов и ведение делопроизводства двора. Должность найки делилась на 3 разряда (великий, средний и малый), каждый из которых занимали по два человека", - то есть как минимум найки/Найки - мужЫг.
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Date: 2018-01-14 12:09 (UTC)no subject
Date: 2018-01-14 18:35 (UTC)